23期振り返りブログ【ようさん編】黄金の港は見えるか

大学3年生の春までの2年間、およそ実益のあることは何一つしていないことを断言しておこう。
有益な授業を進んで多く取り、学業に精を出したわけでもなければ、体育会に入って肉体の鍛錬に励み、組織で何かを成し遂げたわけでもない。
学外での資格取得や長期インターンシップに勤しみ、将来社会的有為の人材となるための布石を打っていたわけでもなかった。
そもそも「親の経済的庇護のもと好き勝手自由気ままに暮らしても社会から何も言われない権利」という、大学生を大学生たらしめている絶対無敵のファイアウォールを放棄する意味が僕にはわからなかった。

「2年の秋冬になったら本格的に動き出す。」

「何を?」

「将来に向けての準備。ゼミとか就活とか。人生の猶予期間って、案外短いなあ。」

友人には、軽薄さの裏に切なさを滲ませてそう語っていた。

そんな僕が牛島ゼミに入ることになった。
今思えば本当に偶然の出会いだったと思う。
何事にも取り掛かり始めるのをギリギリまで伸ばす癖のある僕は、選考まで僅か2週間と迫った11月の終盤まで本当に何もしていなかった。
友人からたまたま誘われた牛島ゼミの4年生トークイベントという催しに、好機とばかりに当日メールで出席の連絡を入れ、飛び入りで参加した。
何事にも影響されやすい僕は、そこでのゼミ生の語りに心底感動し、残り1回しかなかったオープンゼミに参加して情報収集を始めた。
トークイベントでもらったゼミ紹介冊子は何回も読み込んで、内容はほぼ全部記憶した。
だが、肝心のESは徹夜で書き上げようとしていたら気づいたら寝てしまい、目が覚めると空が薄靄いでいた。
締切時間3時間半前から本格的に書き始め、なんとかギリギリで提出を済ませた。
ただでさえ倍率の高い牛島ゼミなのに、このままでは本当に落ちてしまうと危機感を募らせた僕は、面接の準備にはだいぶ力を入れた。
大した事はしていないけれど、僅かな面接時間の中で僕の人となりや強みが伝わるように、話す内容をA4用紙5枚分くらいに練った。
直接会って話せば「欲しい」と思われる人物のはずだ、と根拠のないメラビアン頼りの自信だけはあった。
結果は合格。
バイト先で勤務中に電話がかかってきて合格の報せを受け、高揚感と安堵で胸がいっぱいになったのを覚えている。
僕は、昔から度々「途中まで怪しくても最終的になんだかんだ上手くいってしまう力」のようなものが目覚める瞬間があり、この時それがたまたま発現したのだと思う。
ともかくも、こうして僕は晴れて牛島ゼミの23期生となった。

同期である23期の集合写真。ちょっとした仕草や表情にそれぞれの性格が現れていて面白い。

さて、そんな僕が牛島ゼミに入ってからの輝かしい栄光と実績の数々を英雄譚の如く書き連ねていこう。
というのは嘘で、今思い返すと、牛島ゼミ人生の中で唯一にして最大の功績となったのは、渋沢杯での優勝のただ一点のみにあるのではないかと思う。

元々プロジェクト活動に惹かれてこのゼミを選んだ僕は、競技性の伴うディベートという知のスポーツに最初はあまり乗り気ではなかった。
そもそも誰かと競争をすること自体があまり好きではなかったし、勝利への執着を持たない性格だったので、負けたとしても「まぁこれが人生だよな」とフランク・シナトラのようなどこか達観したセリフを吐く人間だった。

そんな僕が、第1回のディベートで、持てる限りの努力を尽くしたとも言えない中途半端なチームへの貢献で敗北に終わった時、心底自分の不甲斐なさに悔しさを覚えた。
根拠のない自分への信頼が大きく崩れた瞬間だった。
後日、同期で勝利したチームが先輩である4年生と対戦したディベート試合を観ていた時、その凄まじい準備量と既にサマになっているフリーディスカッションでの議論の応酬に、純粋に感動してしまった。
と同時に、その場に居てただ傍観者であった自分が本当に嫌になった。
入ゼミしてから全く同じだけの期間を過ごしてきたはずなのに、同期が歴戦の猛者である4年生と渡り合っている。
片や、ただそれを観て感動させられている自分…。
とても残酷な空間だった。
このどうにも名状し難い感情を昇華するには、次のディベートでは100%の努力をして、そして勝利する…しかないと思った。
そこから僕のディベートへの向き合い方、もっと言えば、チームの中で自分の価値を発揮するということや目の前の物事に本気で取り組む意識というものが決定的に変わった。

第2回のディベートである3ゼミディベート大会では、実質的に僕はチームの先導役となって準備に励んだ。
チーム内で3つの小グループに分かれて立論作成を進めたが、僕はどのグループの様子も見て周り、アドバイスを求められた時は自分のグループとは関係なくても惜しみなく時間を投下した。
チームの誰よりも討論技術が高くなくてはいけないと思っていたし、テーマへの知識や理解は誰よりも深いと自負するレベルまで努力した。
試合1週間前くらいからは熱を出していたが、休んでられないと解熱剤を常時飲んで凌いだ。
大会当日も、先に試合を行なっている同期チームを観戦しながら身体中が熱くなってくるのを感じ、ひっそりとポケットから薬を出して、水で一気に流し込んだのを憶えている。

だが、僕たちは対戦した横田ゼミにあっさりと敗北した。
1票差での惜敗だった。
試合を観戦していた先輩たちからは「フラットな目線で観てたけど、絶対ヨウの班が勝ってたと思うからマジで気にしないでいいよ。」と慰められたが、作り笑顔を浮かべて「そうですか。なら良かったです。」と何の意味も持たない言葉しか出てこなかった。
同期全員で着ていた、自分がデザインしたはずのゼミポロシャツが何故だか見ず知らずの誰かが作ったもののように思えてきて、薬が切れて少し汗ばんできた背中にうっすらと張り付いた。

試合終了後の夜、同期の男子たちと三田のカラオケマックへと繰り出し、喧騒の歌声に塗れた。
全てを忘れ去ってしまいたかった。
深夜日付も変わった頃、誰かがCreepy Nutsの『のびしろ』を入れた。曲が始まり皆が大合唱する最中、席に座ってただその様子を眺めていた僕は、ギリギリのところでずっと押さえていた感情の渦がついに胸から溢れ、一人とめどなく涙を流した。
堪えようとしたが、ボロボロ泣けてきてもう止まらなかった。

こんなに無理をして頑張ったのに。

こんなにチームのことを考えたのに。

こんなにみんな一生懸命やってたのに。

こんなに良いチームだったのに。

どうしてだよ。

どうして報われないんだよ……。

個人的な勝利への執着と、チームのみんなを勝たせてやれなかったという悔しさでアルコールの回った脳内が満たされ、どうしようもなく泣いた。

なんでCreepy Nutsで泣かされているのかはよくわからなかった。しかも『のびしろ』で。どう考えても泣かせる曲ではない。

すると、一人下を向いて嗚咽している僕の横に、酔ったユウが座ってきて何故か頭を撫でながら、

「ヨシヨシ。お前、いいヤツだ!」

と無邪気に言い放った。

その声は、大音量のマイクに飲み込まれて薄茶色の壁に消えた。

「嫌われ方や

慕われ方や

叱り方とか

綺麗なぶつかり方

もっと覚えたい事が山のようにある…

のびしろしか無いわ

のびしろしか無いわ

のびしろしか無いわ ay

のびしろしか無いわ

俺らまだのびしろしかないわ」

気づくと、涙は引いていた。

 

そうして牛島ゼミでの春学期は終わり、太陽の季節が本格的に訪れた頃、僕はディベート班に所属することを決めた。
1回1回のディベートを経験する度、毎回着実に成長している確かな手応えは感じられていた。
しかし、まだ1回も勝利することなくここで終えることなどできないと思った。
もっとディベートでやりたいこと、覚えたいことが山のようにある。まだ成長できる、伸び代しかない。黄金に満ちた勝利を味わいたい…。

1週間後、渋沢杯に向けた班分けが行われ、僕はここ数年連続で優勝していた王者関西学院大学と対戦する肯定班に配属された。
今考えると、本当に良いチームだったと思う。
しっかりしている計画的な実務派のユキナに、フリーディスカッションでテキパキと相手の主張を打ち返す飛車のようなリンカ、戦略立案において相手を理解らせる作戦を立てる軍師ユウ、会議が行き詰まったときに一筋の正解を提示できるアユ、立論のPowerPointを中心に諸事全般で献身的な貢献を率先してくれるリナ、そして僕。

前回の反省を活かし、僕はこのチームでリーダー役を担おうとすることはやめた。
そもそも自分の性格として皆をグイグイと推進していくような典型的なリーダータイプではなかったはずだし、僕がその役に徹する必要も元々なかったことに気づいたからだ。
メンバーそれぞれに異なった分野の強みがあり、全員が各々の長所で貢献できることをやればよく、それこそがチームパワーを最大化する秘訣だという結論に達した。
ゼミ生活を通してこの考え方を獲得できたのは本当に大きな財産だと思う。

だからこそ僕は、テーマに対する優秀な資料選定を通した立論構成の提案や会議中に意見が行き詰まった時の整理と打開、肯定側として最も有利になる論点や資料での戦い方、そして本番のフリーディスカッションでのここぞの主張といった、ソフト面でのブレイン役に徹することにした。
逆に、それ以外の不得意なこと、主にハード面では自分は極力関与せず、要所要所で得意なメンバーそれぞれに任せ切った。
結果として、肯定班は余裕を持って本当に良いと思える素晴らしい立論を作れたし、オープン戦は完全に想定通りの出来だった。
少しずつ自分の努力に現実が追いついて、黄金の港が近づいているのを感じた。

迎えた渋沢杯本番では、さすが王者関西学院大学と言える穴のない立論や予想外の破壊的な資料を用いた反駁による攻撃的な主張に苦しめられ、一時は万事休すとも思えるピンチの場面もあったが、千切れそうなくらいに頭をフル回転させて何とか手を挙げ、こちらの主張を守り切ることができた。
そして、試合全体を通して実に肯定班らしい俯瞰的なディベートを一貫して見せ続けることができた。

…そして、僕たちは勝利した。
否定班も対戦した日本大学に勝利して、23期慶應ディベート班は数年ぶりに優勝し王座奪還を果たしたのだ。
僕にとっては10月に迎えたこの渋沢杯本番がディベート経験を通して初めての勝利となった。

「優勝」を聞いたあの瞬間は本当に嬉しかった。
今までの全ての苦難がこの日のためにあったとさえ感じた。
三田のカラオケマックでとめどなく流した涙は、渋沢杯で僕の心を洗い流した。
カタルシスそのものだった。
大会当日までにのしかかっていたプレッシャーや焦り、過去の自分や仲間の努力に報いる勝利への渇望がこの輝かしい黄金に満ちた現実を連れてきたのだと思った。

思えば、渋沢杯準備期間では最も多くの時間と労力を捧げたからか、無意識のストレス過多によって夜寝つけず不眠症になったり、コロナに罹ったりと肉体的にも本当にキツいことが多かった。
だけど、この肯定班でともに最後まで戦い抜き、そして優勝したという燦然たる事実がその全てを癒した。
試合後の懇親会で飲んだビールは僕の人生の中で最も美味いビールになった。

チームで一丸となり結果を残す、という感動を1ページすら持っていなかった僕の人生史に訪れたこの黄金の経験は、きっとこの先も忘れることはないだろう。

柄でもないと思い、まだ肯定班のみんなにはきちんと伝えられていなかったのでこの場を借りて伝えておきたい。
僕と一緒にディベートをやってくれてありがとう。そして、おめでとう。心から。

渋沢杯優勝後の懇親会での一枚。この時乾杯したビールが僕の人生最高のビールになった。

あれから1年が経ち、このゼミで過ごせる時間も残り僅かとなった今、この物語は未だ僕の中で色褪せない群像そのものだ。

2年生の秋、残り半分の大学生活をどうするべきかと思案に暮れるもモラトリアムを拗らせ、ゆっくりと真綿で首が締まっていく感覚に日々襲われていた過去の自分が今の僕を知ったら、きっと驚くだろう。
ゼミがこんなに面白い場所だとは思わなかった。
牛島ゼミは、通り一遍の優秀な人間だけが集まる所ではない。
様々なバックグラウンドを持ち、様々な価値観や特性を持つまさに人種の坩堝だ。
だからこそ、どんな人間でも自分の行動次第で輝ける機会があるし、それを見つけようと踠くことのできる環境が整っている。
後輩の活動を常に気にかけて何かと協力してくれるお人好しな先輩たちに、優秀なのかと思えば不器用な一面もある楽しい同期たち、そしてこんな僕でも頼ってくれる可愛い後輩たち。

今思えば、牛島ゼミへの門を叩くことのできる1回きりのこの入ゼミ期間は、現在の自分の進路上では到達し得ない黄金の港へと向かっていけるコンパスを持っているようなものだ。

僕の好きな詩人であるアルチュール・ランボーは、『地獄の季節』の中で、

「秋だ。俺たちの船は、動かぬ霧の中を、纜を解いて、悲惨の港を目指し、焔と泥のしみついた空を負う巨きな街を目指して、舳先をまわす。」(『別れ』小林秀雄訳 より)

と詩っている。

僕は2年前の今、これからどこへ向かうかもわからない深い霧の立ち込める船の上にいた。
成長したい、何かを成し遂げたい、そういったブレイクスルーを遂げるには必ずその過程で痛みを伴う。
自らの操舵によって安全な港ではなく悲惨の港を目指し、その悲惨が黄金に変わるまさにその瞬間に立ち会うこと。
それこそがこのゼミで味わえる何よりの感動であり、醍醐味なのだと思う。
僕は、その動かぬ深い霧の中で仲間たちと共にディベートを本気でやることを決め、苦難の連続の日々という悲惨の港を敢えて目指し、それは最後に渋沢杯優勝という黄金の港に変わった。

紛れもなく、僕の2年間の三田生活の中心にあったのは牛島ゼミだった。黄金の港が見えるまで僕と共に航海をしてくれた先生と仲間たちに大きな感謝を捧げたい。

最後に、僕の予備校時代の恩師がくれたこの言葉で締めくくろうと思う。

 

「若者よ、人生に惚れ抜け。やはり、人生は素晴らしかった。」

 

 

【あとがき】

ここまで読み進めてくれた殊勝な2年生のあなた、牛島ゼミでの生活は何となく思い描けたでしょうか?
ここに書かれた事は、全てこのゼミに身を置く僕が体験した、超弩級・完全無欠のノンフィクション青春群像劇です。

この文章を通して僕が2年生に伝えたいことは、何事も新しい場所,経験に一歩踏み出してゆくことの大切さです。
僕自身ここに書いたように、入ゼミ前まさか自分がこんなにディベートに対して一生懸命になったり、それを通して成長し、こんなに感情が揺さぶられることになるとは全く思ってもみませんでした。
人生って本当に偶然のきっかけで全く予想できない出来事や人との繋がりが生まれるものですよね。

僕は、日吉キャンパスでたまたまサークルの友達に会って、せっかくだからと一緒にランチを食べていた時に誘われた「4年生トークイベント」という催しで牛島ゼミのことを知りました。
もしあの時僕がフランス語終わりの教室を出るのが数分ズレていたら、もしあの時僕がランチを断っていたら、もしあの時友達が1人で行こうとしていたら、あるいは別の誰かを誘っていたら…僕は牛島ゼミにはいなかったわけです。
当然ここに書いた経験をすることもなく。本当に面白いですよね。
ただ後から振り返ってみると、こういう偶然だけれども、何か見えない大きな力によって導かれたとしか思えないきっかけってあるんですよ。

2年生の皆さんはそういう”偶然”を素通りせずちゃんと自分のモノにして、そこから本来交わることのなかった新しい素敵な世界に自分を連れて行ってあげて、色んな経験をさせてあげて欲しいなと思います。

普段は飄々としていて掴みどころのない性格と言われる僕ですが、ゼミに入ってからの2年間で体験したことやその時思っていたことを、丁寧に当時を思い出しながら最も自分らしい書き方で書きました。
物語なのかエッセイなのかもはや自分でもよくわかりません。
色々な感想があるかと思いますが、2年生の皆さんはゼミ選考までの残りの期間、いっぱい悩んでみるといいと思います。
そして、すごく迷ったら、評判とか倍率とか周りの友達が、とかそんなものはどうでもいいから、自分の心が楽しいという方を選びましょう。
それがあなたにとっての正解ですから。もしその選択の結果が牛島ゼミであればこんなに嬉しい偶然はありません。

どこかの世界線であなたの人生と交わることを楽しみにしています。

2024.11.09 三田の喫茶店にて、珈琲を飲みながら 23期 よう