先週、「あなたにとって牛島ゼミとは何か」を紙に書いて写真を撮ってください、と4年生宛に連絡が来た。どうやら来年度のパンフレットに使うらしい。
わたしにとっての牛ゼミって何だったんだろう。考えること5分くらい。
「きっかけの宝庫」と書いた。
こう書いたのは、
牛ゼミには、「自分の世界を広げる出発点」がごろごろ転がっている、と思ったからである。
磨くとダイヤみたいにキラキラ光るけど、まだ磨かれていないから、それがダイヤだとは気づきにくい。
でも、地面をよく観察して、石ころを手に取り、きゅきゅっと磨いたら、とっても価値あるものに大変身、みたいなイメージ。
わたしは、4年生の夏休みを、南伊豆にある「ローカル×ローカル」というゲストハウスで過ごした。ここでの経験は本当に濃くて、滞在してから、自分の興味関心や、学生生活の過ごし方が、170°くらい変わった(詳しくは私のnoteにて)。
じつは、自分をここまで変えたきっかけは、牛ゼミの先輩だった。19期のはるなさんが、ローカル×ローカルの住み込みインターン募集を告知してくれたのだ。LINEグループで見つけたメッセージを読んで、添付されたリンクを開いたこと、その後はるなさんに「行きたいです」と連絡したこと。これが、残りの学生生活を大きく変えた行動となった。
だからわたしは、きっかけを拾うか、拾ったきっかけを磨くか否かで、自分が得るものはいかようにも広がりうる、と思っている。
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「きっかけ」をダイヤの原石と例えるのなら、ダイヤは「そのきっかけを通じて得られる経験」のことを指せるだろう。
ダイヤの原石(きっかけ)が転がっているのなら、どうやったらダイヤ(経験)にできるだろうか。こんな方程式をつくってみた。
きっかけの数×行動量=体験量
その体験×内省の深さ=経験の濃さ
はるなさんが告知をした、という「きっかけ」と、
「行きたいです」と連絡した「行動」が、ローカル×ローカルでの体験につながった。
こういうきっかけの数が多いほど、そのきっかけを掴みにいく行動量が多いほど、体験できることも増えるだろう。
でも、ただ体験しただけだったら、「あー楽しかった」、で終わってしまう。
自分の体験をフィードバックして、学びを得たら、「体験」が「経験」に昇華されるのではないだろうか。深く内省するほど、経験は色濃いものとなり、その後の自分の指針や、自分を支える役割を果たしてくれるのではないだろうか。
ローカル×ローカルでは、自分の至らなさや情けなさを思い知ったし、上手くいかないことにもぶつかった。心はアザだらけだった。でも、その体験を無かったことにはしないで、だめな自分に向き合った。自分に向き合う鏡になったのは、オーナーやゲストなど、対峙してくれた人たちで、そしたら、「こうしてみよう」「こう考えてみよう」と、学びを得られた。この時になってやっと、苦しかった「体験」が、自分を支える「経験」に変わったのだと思う。
ゼミの3本柱の一つ、ディベートも、これが当てはまると思う。
きっかけ:ディベート体験会で、ディベートの面白さを知った。先輩の試合動画を見て、最終弁論ってかっこいい!と思った。
行動:同期と初めて行ったディベートで、最終弁論を担当したい、と申し出た。
体験:ディベートの機会があるたびに最終弁論に挑戦した。でも、全然思い通りにできなかった。
内省:上手くいかない原因には準備のしかたがあると思ったから、先輩のやり方や、上手な同期のやり方を聞いて、教えてもらったことを取り入れてみた。
経験:ディベート見学会で、初めて満足のいく最終弁論ができた。
こんな感じである。
きっかけを見過ごさないこと。体験して終わり、にしないこと。
きっかけを経験に昇華すること。
これを繰り返せば、牛ゼミで得られる経験はどんどん濃いものになっていくんじゃないのかな、と、ゼミ活動を経て、考えている。